日蓮宗 一乗山妙法寺

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  • 我等衆生は教主釈尊の愛子なり(機関誌 本門 第162号掲載)住職 井村一誠

    2017年01月02日

    法話

    昨年は開闢十周年の節目の年でした。十年目にしてやっと、お寺の役割、僧侶の在り方等に手応えを感じた年でした。

    法華経を学び、日蓮聖人の御書に親しんで、改めて、日蓮聖人の宗教は、要約すると立正安国(正法を立て国を案ずる)、正法(法華経)を人々が信仰することによって、国(社会)の平和・繁栄と、人々の生活の安心を実現することです。わたくしたちの人生は、生老病死という大きなハードルを越えなければなりません。

    妙法寺に来ていただき、講演もしてくださった瀬野泰光上人は、著書「お題目がわかる本」の中で、生老病死の解決は、久遠実成(仏様のお命が永遠)であることを知ることだと仰っています。又、日蓮聖人は『法華取要抄』の中で「この土の我等衆生は五百塵点劫より已来、教主釈尊の愛子なり(この娑婆世界に生きる私たちは、五百億塵点劫という我々の知恵では到底計れないはるか昔から、教主釈尊の愛子であるという意)」とお示しです。要するに、私たちは、五百億塵点劫の昔より教主釈尊と親子の関係にあるということです。もっとわかりやすく言えば赤い糸で繋がっていて、切っても切れない関係にあるということです。このことに気づくことが、信仰の第一歩なのです。

    私達(魂)は、両親からこの身体をいただいてこの世界に出生し、生老病死を経て、命尽きればまた次の代へと輪廻転生します。この生命の営みを五百塵点劫の昔より今日まで繰り返してきているということです。教主釈尊と私達とは親子の関係ですから、その慈悲の働きに「南無妙法蓮華経」のお題目でお答えしなければなりません。私達(魂)はお題目によってのみ救われ、教主釈尊と一体になってこの世を生き、即身成仏(信心によって仏様と一体になる)を目指すのです。そして人生を終えるとき、安らかな臨終(霊山浄土へ参ることができる)を迎えられるのです。

    一昨年十月頃、老夫婦と娘さんが妙法寺を訪ねられ、「将来ここでお世話になりたい」と、ご縁を結んでいただきました。昨年十月初めそのご主人が亡くなられました。一人娘を嫁がせて将来は永代供養をと伺っていましたので四十九日以降のことをどうされるのか、思案しておりました。三七日過ぎた頃、母親と娘さんが訪ねられ、仏壇が欲しいと相談されました。積極的に求められるので、「良ければ、今から見に行きましょうか」とお誘いすると、二つ返事で、「ハイお願いいたします」と。仏壇屋さんへ行き、お店に方に品物選びから値段の方まで値打ちにしていただき、小振りな仏壇を一式整えることができました。後日、ご婦人から「今日、仏壇が届きました。とてもうれしいです。床の間に備え付けていただきましたら、小振りなのに立派でなぜか家の中が明るくなり、気持ちが落ち着けて、とても安心な気分です。ありがとうございました」と、感謝の電話をいただきました。ご主人を送り、これまでの感謝の思いが、仏壇購入につながったのではないかと推察しました。

    仏壇は仏様をお祀りする壇、教祖釈尊との出会いの場所です。電話で、「家の中が明るくなり、気持ちが落ち着けて、とても安心な気分です」と、仰らしゃられました。当に、仏様(教主釈尊)との出会いを肌で感じられたのではないのでしょうか。冒頭に上げたお寺の役割、お寺が存続する目的はここにあると思います。

    本年私は、六十代最後の年になります。法華経・お題目との不思議なご縁によって、多くの課題を与えられ今日まで来ました。振り返ってみて、あっという間の四十代初老、まさかの五十代、生老病死の後半六十代、そして臨終生念を迎える準備の七十代となります。改めて、「我等衆生は教主釈尊の愛子である」という金言をいかに伝えるべきか、新たなテーマをいただいた次第です。

    本年も当山の理念である、「教主釈尊の実在と救いを信じ、お題目を唱え、お題目を伝える」の実践に精進してまいります。

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