日蓮宗 一乗山妙法寺

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  • 令和の「四条金吾」加古 康氏(機関紙 本門 第167号掲載)住職 井村一誠

    2019年07月23日

    法話

     本年五月十九日に亡くなられた加古康さんは、平成二十四年五月六日、妙戒授与式を妙法寺にて行っておられます。生前戒名は、「観心院妙覚日康居士」と、名付けられました。
     お通夜、告別式は本人の意向で妙法寺で執り行いました。柩の中の姿は、成すべきことを成し遂げたという満足感が漂い、よい儀式ができたと思います。
     平成二十九年一月発行の本門第百六十二号に「観心本尊抄の学びを信行の基として」と題しての一文が載っています。冒頭、「肺癌ステージⅣの診断を受けてから四年、不思議に生きている。本当に有難いことである。今年も闘病というか、癌との共生が続行することは確実な現実である」と。
     この原稿を書かれたのは、平成二十八年十月頃だから、四年前ということは平成二十四年です。生前戒名を申し込まれた年です。先程の原稿の続き、「年もあらたまり、今生かされている意味を探り何をすべきかを今一度考察したい。毎月十五日に研修していた開目抄も不十分ながら、終了させていただいたので本年は一歩前進、ぜひ観心本尊抄の学びにチャレンジしたい」と。
     観心本尊抄の勉強会は、加古さんの遺言となりました。
     平成十八年四月、機が熟し、単立宗教法人妙法会から日蓮宗妙法寺へと新しく生まれ代わりました。法華経や日蓮聖人御遺文を学び、南無妙法蓮華経のお題目を唱える中で、日蓮宗に帰属することの機運が高まり、当時十三名の総代さんと真剣に話し合いました。妙法会のままでいいのではないか。寺になると他宗の方達は来にくくなる等の意見もありました。しかし、仏様(久遠の本仏)の実在と救いを信じ、南無妙法蓮華経のお題目を唱え、お題目を伝えていくことが日蓮聖人の教えにかなうことであるという理念が大きな流れとなって、今日の姿になりました。その流れの先頭で活躍された一人が加古さんでした。今にして思えば、妙法会から妙法寺への進化は、加古さんの存在無くしてあり得なかったと言っても過言ではないと思います。
     日蓮聖人の第一の信者といわれる四条金吾は、鎌倉幕府の高官、江間光時に仕える武士で、医術にも長じていました。日蓮聖人は、四条金吾に出された「崇峻天皇御書」の中で、竜の口法難を懐古して、その時の感激を新たにしておられる一節です。弟子を思う師の心情が読む者の心を打ちます。「日蓮が首を斬られようとした時、貴殿は馬の口に取りついて泣き悲しんでくれたことは、いつになっても忘れることはできない。もし、貴殿の罪が深くして地獄に堕ちるようなことがあれば、日蓮は釈尊がどのように仏にしようと申されても、貴殿と同じく地獄に堕ちようと」との文に師と弟子の一体感に厚いものを感じます。
     加古さんも四条金吾に似て真っ直ぐな所があり、短気なところがありました。至らない住職のために、堤婆達多のような損な役割を幾度も演じ、苦言を呈してくれました。そのお陰で、現在、住職を務めさせていただいていると、今は懐かしく当時を振り返り、今後共に感謝の心で御回向をさせていただきます。

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