日蓮宗 一乗山妙法寺

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  • 塚本三郎先生ご逝去(機関紙本門第169号掲載) 住職 井村一誠

    2020年07月19日

    法話

    安田家が長野県との県境岐阜県恵那郡坂下町(現在の中津川市)から愛知県知多郡上野町(現在の東海市)へ移ってきたことの発端は、塚本三郎先生の一言です。このことは、昭和60年7月3日、父が還暦を期に半生を自分史にまとめた、著書「一筋の道」に綴られています。

    『昭和33年。松の内も明けた日曜日であったと思います。塚本三郎さんがわざわざ坂下を訪ねられ、「4月から是非愛知県の方は変わってきてほしい」と懇請されました。「次の衆議院選挙には必勝態勢で臨んでいる。法座の方が手薄になるから、何とか代わりをしてほしい。安田さんが真に法華経の教えを求めて修行されるなら、是非この機会に愛知県に来てほしい」と力説されました』と、父は記しています。

    塚本三郎先生と法華経の出会いは、当山の機関紙、本門第141号(私の父・私の母)の中に掲載されています。題は「法華経こそあなたの宝」。

    『「この戦争は勝てないかもしれないよ。それでもお国の為に力一杯働きなさい。戦争に勝つにこしたことはない。しかし、万一負けたとしても、あなたがお国のために、力一杯働けば、お国はきっとあなたのためになる方向になるよ。むしろ負けた方が良かったということだってあるよ。だから、危ない日本の国を救うつもりで、国家のために働きなさい。正しい者が不幸になる事は決してありません」こんな説法を聞かされたのは、昭和19年の秋であった。わが母、塚本たしさんとの、最初の出会いであった。当時の私は、18歳の青春でした。 ー中略ー 終戦、やがて、横須賀に於ける信仰生活が深まるに従って、国鉄勤務を辞め、大学生活と知多地方の法華経布教の座談会に、母の弟子として出席するようになった。太って重い母を自転車の後ろに乗せて、各地の座談会に通うことが、大学生活と共に、私の日課にもなった。時には坂かよさんと3人で座談会の帰り道を、夜遅く大声で軍歌を歌って敗戦のウサを晴らしたことも度々だった。思えばあの当時の母子と思った時代が懐かしい。法華経二十八品、日蓮聖人御遺文を何度読み返したことか。それでも大切な部分は、母というより師匠として経文を身に読んだ行者として、説明を求めた日々であった。31歳で衆議院議員に当選するまで、親としてどれほど苦労をかけ、頭をさげてくれたことか。願いかなって初当選した時「三郎さん、法華経こそあなたの宝だよ、忘れなさるな」と、戒めてくれたことが私の生涯の宝となった』

    衆議院議員(通算10期)、民社党書記長、委員長を歴任されました。平成9年、勲一等旭日大綬章を受賞、平成12年、政界を引退されました。一線を引かれてからは、長い国政の経験を生かし、政治・経済・世相等を鑑み、法華経信者の立場から時事評論的な書物をA4サイズ3枚程度にまとめ、縁のある方々へFAX送信されていました。又、平成25年頃より、本年2月頃まで妙法寺で毎月6日、夜の法座で法話をして下さいました。

    令和2年5月20日午前8時30分、老衰死でした。訃報をお聞きし、枕経にお伺い致しました。居間にお休みになられているお姿に会い、自然のままの、老衰の尊いお姿でした。自身の生きざまを全て見せ、塚本たし先生との出会い。国政を志し、正秋に君臨されたお姿。一線をひかれた後の生きざま。晩年老いて、足元がおぼつかない中でも法話されるそのお姿。そして老衰死。ふと、先生の言葉が思い出されます。父の自分史「一筋の道」巻頭、推薦のことば、塚本三郎「同行二人」中の後半、「争うことの大嫌いな私が、阿修羅の政争の頭となり、先頭に立って働かねばならぬ皮肉な巡り合わせとなりました。諸行無常の世相にあって、還暦を迎えられた安田さん、重荷を背負っての人生の旅路ですが同行二人、つまり仏様と二人で背負い、仏様と二人が相談しながら、旅して行かれれば寂しくはないでしょう。頑張って下さい。私はまだまだ仏様との二人連れでなく、煩悩も野心もごちゃ混ぜの雑多の同志を束にして背負いながらの旅が続いております。その点、安田さんがうらやましいと思います。でも行く先々に妙法の明かりだけは決して離しません。安田さんが還暦を機に出されたこの本が、法華経を信仰される皆さんの日々の生活の中に生かされ、人生の指針となることを願ってやみません」と記されております。

    今回、先生のご逝去に際し、新型コロナの三密の対応、諸事情もあり、通夜・密葬を親族の方々で済ませられました。翌日、嫡男の塚本剛さんご夫妻、奥様の三人が当山を尋ねられました。「二七日以降、今後は妙法寺でお世話になりたい」と、懇請されました。色々と事情をお聞きしました。御親族の決意の程を受け止め、当山の開基の御子息でもあり、そうすることが、塚本たし先生が一番お喜びになる事ではないかと判断し、お引き受けするこにいたしました。父の自分史、「同行二人」の中で、先生は、冒頭「法華経の布教が政治運動と一体となりつつあった時、安田さんをはじめ、多くの若者の協力いただきつつ、私は政治の世界に飛び出して行きました。そして、結果としては私の後釜のような形で、安田さんにすべてをお任せすることになってしまったのです。計ったわけでもなければ、計られたわけでもありません。自然とそうなってしまったのです。正に仏様の計らいとしか受け止めることができません」と。

    塚本三郎先生の一言で、安田家の運命が一変いたしました。私は、井村家に婿養子に行き、現在は井村家を嫡男に任せ、妙法寺の住職です。とても背負いきれないような荷物にも関わらず、立って居られるのは、法華経の尊さであり、お題目(一念三千の法門)の働きの何物でもないと確信しています。塚本三郎先生の一言を、仏様の計らいして受け止め、より一層の精進をお誓い致します。

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