日蓮宗 一乗山妙法寺

お知らせ

  1. トップページ
  2. お知らせ
  3. 師の法華経実践に学ぶ(機関紙本門第171号掲載) 住職 井村一誠
  • 師の法華経実践に学ぶ(機関紙本門第171号掲載) 住職 井村一誠

    2021年07月18日

    法話

    車で横須賀方面を通る時は、時々幹線道路から外れて塚本たし先生の旧自宅(横須賀道場)の前を通るようにしています。今も愛宕神社のまん前、昔の面影をとどめ静かにたたずんでいます。左隣りの借家が撤去され、西側が補修されましたが、正面玄関はそのまま昔の引き戸です。玄関の前を通ると、60年程前の記憶が蘇ります。昭和39年、高校1年生の時に横須賀道場の門をくぐった当時の事等。丁度東京オリンピックの年でした。当時、塚本先生は54歳、私16歳でした。道場の二階では、毎月3日は立正会、6日は法座、10日は勉強会が開設されていました。3日は立正会の例会が開かれ、20歳前後の若者が集い活気に満ちていました。多い時で4~50人前後、熱気に溢れていました。戦後の日本を支える団塊の世代です。二階は8畳2間、奥の方に6畳2間あり、8畳2間が会場として使われていました。8畳2間の中央に祭壇があり、お曼荼羅ご本尊が掲げてありました。内容は会長の進行によって仕切られ、体験発表と先生方のお話が中心でした。体験談は、当日参加した会員に順に当てられます。私は小さくなって、後ろのほうに座っていました。それでも指名され、日々の近況報告や、懺悔話等を発表したことを記憶しています。塚本先生や坂角さんのおばさんや父は、若者たちの未熟な体験談を目を細くしてにこにこしながら聞いておられ、時々口をはさんで助言をし指導をして下さいました。塚本先生は、「三郎さんのように、みんなの前で法が説けるようになるといいね」と、よく言われてました。当時の私にはとても荷が重すぎると、他人事のように受け止めていました。

    今回の本門の原稿の中に、家内が塚本たし先生の法華経伝道の姿を評した一文が載っています。
    「昭和20年前後、終戦間近の荒れた人々の心に、この教えを伝えなければいけないと、坂かよさんと一心同体で横須賀の地に初めて法華経の灯をともされました。周りの反対の冷たい目線もある中で、今こそ法華経を伝え、日本の国を立ち上がらせねばならないと法座を開き多くの若者を育てていきました・・・・・」と。

    教主釈尊が、「我が滅後末法の時代にこの法華経を伝えて欲しい」と、申された事を正に実践されたのです。昭和16年頃より始まった布教活動(法座)が戦後の復興を支える力となり、団塊の世代の心の支えとなりました。旧横須賀道場の二階で法華経に縁を結んだ多くの若者は、社会人なり巣立っていきました。

    時代は昭和から平成の世に移り、妙法会は平成18年、「南無妙法蓮華経」のお題目を「信じ」・「唱え」・「伝える」の旗印を鮮明に打ち出し日蓮宗妙法寺として新寺建立いたしました。

    日蓮聖人の立正安国の精神のもと、釈尊の願いを叶える寺としての役割をいただけたことに対し、感謝と責任を感じています。世の中の変化に対応できるように楽しく足を運べるお寺、お題目発信の寺となるべく一層の精進をしてまいります。

ページの先頭へ