日蓮宗 一乗山妙法寺

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  • 我も亦世の父(機関紙本門第159号掲載) 住職 井村一誠

    2015年07月26日

    法話

    過日、喉の調子が良くなく、掛り付けのの耳鼻科へ行った。夕刻時間帯のせいか、若い親子連れで少子化の風評を感じさせない位、賑わっていた。受付を済ませ呼び出しを待っていると、よくある幼児の恐怖の声、中々泣き止まない。診察を拒んでいるようだ。町医者でよく見かける光景だ。しばらくして、静かになった。呼ばれて診察室に、悲鳴の主であろう幼児、興奮冷めやまず母親の胸元に顔をうずめていた。若い親も対応に戸惑い気味、医者も幼児の必死の抵抗に苦笑い。子どもにとって母親が何よりの拠り所。しかし、嫌がるからといって治療を拒めば苦しむのは子供。親は、手立てを尽くし我が子のために医者の治療を受けさせ病から救うのである。

    子供に対する親の姿勢で心に残っていることがある。私が小学校5年生の3学期、岐阜県坂下町(JR中津川駅から松本方面へ2つ目の駅)の山奥から、当時の知多郡上野町へ引っ越して来た。翌年、昭和34年9月26日、史上最強クラスの台風に襲われた。日中はとても良い天気だったが、夕刻頃から荒れはじめ日が暮れて、だんだん風が強くなり、家が軋むような暴風雨となった。風がゴゥーッと、地響きのような音を立て始めた。家が、ギッギギッギッーッと揺れ、傾いていく。この家どうなるかと、不安がよぎる。風が息をするように緩むと、今度は傾きがもとへ戻る。ギッギギッギッーッと、何とも気味の悪いこと。また強い風が来る、だんだんと家の傾く角度が大きくなる。いつ倒れてもおかしくない、小学校6年生の私には耐えきれない恐怖の時間帯であった。この時の様子を父に聞くと、「お母さんは、一番下の潤子を背中に負い、長女の眞理子と、次女の美和子を押し入れに避難させ、弟の正と私を後ろに座らせて、御本尊の前で一心にお題目を唱えていた・・・」と、言う。この時、父35歳、母34歳。経験したことのないような、自然界の脅威に毅然として、お題目で立ち向かった両親。子供たちを守るための必死の祈りではなかったかと推察をする。歴史に残るこの伊勢湾台風で、名和小学校児童25名が犠牲になり、後日「友情の塔」が建立されている。

    子供ができて親となる、子供は成長し、やがて親元を離れて自立をしていく。親は子供が幾つになっても我が子の幸せを願い、見守り続けるものだ。我々凡夫の親でも我が子の成長・幸せを願うように、法華経で顕される仏様は、我が子(末法の衆生)の苦しみの原因は三毒(貪り・怒り・愚痴)が強盛で、自分以外のものは何者も認めない、自我の魂であると見抜いて、病を治すために、色・香り・味の良い良薬(南無妙法蓮華経のお題目)を調合し残してくださったのだ。仏様は、如来寿量品第十六で、私達との関係を、「我も亦為世の父、諸の苦患を救う者なり」と。具体的に父親だと宣言をし、憂い苦しむ衆生を救うのは自分であると、説き示されている。力強いお言葉である。私たちはその仏様が残してくださった良薬(南無妙法蓮華経)効能を信じ、唱え、周囲に伝えていくことが大切である。このことが、仏様(父親)の一番の願いであり、私たちの日々の実践は仏様の願いを叶えることである。

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