日蓮宗 一乗山妙法寺

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  • 求道心こそが信心の一歩(機関紙本門第157号掲載)住職 井村一誠

    2014年07月27日

    法話

    毎月、月回向にお邪魔するご家庭での会話です。信仰歴が長いベテランのおばあちゃん。「年をとると何にもいいことあらへんでいかんわネー」と。すかさず、「いいことって何ですか?」と聞き直すと、「そりゃあ目が見えて、耳が聞こえて、御飯が食べれて、自分の事が自分でできることだがねェー」と。だんだん己が身に訪れる不自由さを憂う一言だと思いました。誰でもやがて目や耳は疎くなり、身体も自由ではなくなります。家族の介護が必要となり、生老病死は誰も逃れない厳しい現実です。

    お釈迦様は、信仰心を失った末法の衆生を案じて、法華経をお説きになり、その時代に上行菩薩(日蓮上人)を遣わされたのです。

    「人間は万物の霊長」と、言われています。霊長たる所以は、創造機能を働かせる「智慧」が備わっているからです。智慧は善にも、悪にも両方向に働きます。智慧が悪に働けば、この肉体を維持するために備わった本能、五欲(飲食欲・財欲・色欲・名誉欲・睡眠欲)に執着をすることによって悪道【地獄(怒り)・餓鬼(貪り)・畜生(愚痴)】に堕ちるといわれています。お自我偈の一説、「五欲に著して悪道に堕ちなん」とあります。しかし善に働けば、求道心を起こして仏様の智慧にも繋がっていきます。私達は智慧の働きによって、善にも悪にも無限の可能性を秘めています。先師は、「宗教無き教育は賢き鬼をつくる」と、警鐘を鳴らしています。ただ、智慧があるだけでは、五欲に触発された心は自身ではコントロールできません。世間では、指導的な立場の人が、汚職・賄賂・詐欺・薬物・猥褻行為等々、五欲に本心を奪われ、賢い鬼と化しています。五欲等につまづいては人生のハードル生老病死は越えられません。

    日蓮聖人は日女御前御返事の中で、「たとい日月の光ありとも、盲目のために用事なし。たとひ声がありとも、耳しひのためになにの用あるべきか。日本国の一切衆生は盲目と耳しひのごとし。この一切の眼と耳とをくじりて、一切の眼をあけ、一切の耳に物をきかせんは、いか程の功徳かあるべき。誰のひとか、この功徳をば計るべき。たとい父母子をうみて眼・耳ありとも、物を教ふる師なくば畜生の眼・耳にてこそあらましか」と、お示しです。

    たとえ日月の光明があっても、目の不自由な人には光は届かない。また声を出してみても、耳の不自由な人にとっては何の用にもたたない。それと同様に日本中の全ての衆生は目と耳の不自由な人のようなものである。このすべての眼と耳とを開いて、正しくものが見えたり聞こえたりするようにしたとしたら、その功徳はどれほど大きいものか、だれもこの功徳を計算することは困難であろう。たとえ父母から生んでもらって眼や耳が備わっていたとしても、物を教える正しい指導者いなければ、畜生の眼や耳と同じではないか、という意。

    冒頭にお釈迦様のお心を申し上げました。日蓮聖人は、私達の眼と耳を開いてお釈迦様の慈悲を受けることができるようにと、真に願っていらっしゃいます。そのために方便の教えを捨てて、お題目を信じ、唱え、伝えることを強く広められたのです。

    私達は、求道心を起こすことによって、良き指導者と出会い、信心が深まればお釈迦様の功徳(智慧)が具わり、周囲の人達にも信仰の輪が広がっていきます。この求道心こそが生老病死の解決、人生の目的も解決するでしょう。まづは求道心を起こすことが信心の第一歩です。

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